前院長 藤原正博のコラム

前院長 藤原正博が在任中に書いたコラムを掲載しております。

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安楽死と尊厳死

 ブリタニー・メイナードさん、29歳が、予告通り11月1日に自ら死を選んだことが報道されました。米国オレゴン州の自宅のベッドで、家族に囲まれ、医師から処方された薬を飲んで、安らかに息を引き取ったとのこと。
 テレビや新聞などでご存知の方が多いと思いますが、彼女は今年1月に脳腫瘍と診断されました。結婚して1年ほどだったそうです。治癒を望めず、病勢コントロールのために医師から提示された全脳照射は、深刻な副作用のため自分に残された時間を破壊することになる…、さらに緩和ケアを受けてもいずれコントロール不可能な激痛に襲われることになり、人格の変化をきたし、身体も動かせなくなり、会話もできず、愛する夫や家族、友人などを認識することすらできなくなる…。
 苦悶する日々の中、彼女が選んだのが「尊厳死」でした。そこで、それまで住んでいたカリフォルニア州サンフランシスコ湾岸地域から、尊厳死が合法化されているオレゴン州のポートランドに、夫とともに転居。自身の重大な決意をウェブ上で公にしたため、全米で議論を巻き起こすことになりました。
 さて、皆さんは彼女の選択をどう評価されるでしょうか。

 ここで言葉の意味を整理しておきましょう。
 今回のブリタニー・メイナードさんの場合に用いられている「尊厳死(death with dignity)」という言葉は、米国では「医師による自殺幇助」を意味し、日本では「安楽死」にあたります。日本での「尊厳死」は、「患者の自己決定に基づいて、過剰な医療を避けて尊厳をもって自然な死を迎えること」というふうに理解されています。これは米国では「自然死」のことで、ほとんどの州で患者の人権として法律で認められているとのことです。
 日本では安楽死は認められていませんが、米国ではオレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、ニューメキシコの5州で「尊厳死」が合法化されており、ブリタニー・メイナードさんはそのためにカリフォルニア州からオレゴン州へと転居したわけです。
 安楽死には四つの種類があります。まず「消極的安楽死」。これは苦痛緩和策がない場合に、生命とともに苦痛を長引かせる治療を中止するものです。次が「間接的安楽死」。苦痛緩和措置が生命短縮の副作用を伴うことが予見されても、なお実施するというものです。三番目が「積極的安楽死」。緩和策のない激しい苦痛の場合に、直接死なす措置を講ずるものです。最後が「医師介助自殺」。積極的安楽死と同様の条件下で、本人が医師に用意させた苦痛の少ない手段を使って自殺するというもので、ブリタニー・メイナードさんの場合がこれに当たります。

 日本ではいわゆる「尊厳死法」を制定しようという動きがありますが、意見の隔たりが大きく、未だ制定には至っていません。いわんや、安楽死など…、といったところでしょうか。

 これまでの医療は「延命」が至上命題でした。そのために様々な医療措置が施されました。気管内に管を入れて人工呼吸器につなぐ、様々な点滴の管、尿道カテーテル、場合によっては栄養補給のための鼻からの管あるいは胃瘻チューブ、等々、誰が名付けたのか「スパゲッティ症候群」(失礼な言い方だとして、最近はほとんど使われません)。これらの処置が一時的なもので、患者さんが回復するのであれば別に問題にはなりません。しかし、どう手を尽くしても回復が望めない場合があります。そうなるといつか必ず命の終わりを迎えることになります。その結果、耐え難い苦痛に苛まれながら死までの時間を過ごさなければならない患者さんが出て来たのです。これを何とかしたいということで緩和ケアの技術が進歩したのですが、残念ながら100%苦痛を除くというようなわけにはいきません。本人はもちろん苦しい、そして見ている家族や医療側もつらい…、何とか楽にしてあげたい、ということで、基本的には「患者さんのため」という思いで、医療側が安楽死に手を貸してしまう事件がいくつかありました。有名なのは「東海大学安楽死事件」。

 平成3年、多発性骨髄腫で東海大学医学部附属病院に入院していた患者の家族の強い要望で、主治医が塩化カリウム製剤を注射して患者を死亡させた、という事件で、主治医が殺人罪に問われました。これに対して横浜地方裁判所は、平成7年3月28日に被告(主治医)を有罪(懲役2年執行猶予2年)とする判決を下し、刑が確定しました。その際、裁判所は、医師による積極的安楽死が許容される4条件を示しました。すなわち
 ① 患者が耐え難い激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
 ② 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
 ③ 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がないこと
 ④ 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
の4つです。
 本件においては、患者は昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかった(と思われる)ことから、①④を満たさないとして、有罪となりました。ただし患者家族の強い要望により行われたことなどから、情状酌量により減刑され、執行猶予が付きました。

 もう一つ触れておかなければならないのが「川崎協同病院事件」です。平成10年、気管支喘息重積発作で心肺停止となった患者が川崎協同病院に搬送され、蘇生処置により心拍再開、呼吸も一時人工呼吸器が装着されたものの、自発呼吸が再開(気管内チューブは留置のまま)、しかし低酸素脳症のため、意識は回復しませんでした。2週間後、担当医が家族の要請に基づいて家族の前で気管内チューブを抜き取り、鎮静剤、さらに筋弛緩剤を注射して、患者を死に至らしめた、という事件です。横浜地方検察庁により殺人罪として起訴されました。一審横浜地裁判決では殺人罪の成立を認め、懲役3年執行猶予5年の判決が下されました。二審東京高裁判決は、家族の要請によるものであったことを認定し、懲役1年6か月執行猶予3年に減刑しています。この裁判は最高裁まで持ち込まれましたが、平成21年12月、最高裁第三小法廷は被告の上告を棄却し、高裁判決が確定しました。この裁判は延命治療の中止を巡って医師が殺人罪に問われたことに対し、最高裁が初めて判断を示すケースとして注目されましたが、最高裁は延命治療の中止が許される要件については示しませんでした。ただし、延命治療の中止を考えるにあたり法律上何が重視されるかは明白となりました。即ち、まず第一に、十分な治療と検査が行われ、患者の回復可能性や余命について的確な判断をくだせる状況にあること、そして第二に、家族に適切な情報が伝えられた上での患者の推定的意思に基づくものであること、の二つです。

 患者さんの病気の回復の見込みがなく(誰がそれを判断するの?)、意識がない(ということは、患者さん自身は苦痛を感じていない?)場合、どこまで延命治療を続ければいいのでしょうか。とても難しい問題で、様々な考え方があります。
 患者さんに意識がある場合はどうでしょうか。日本尊厳死協会が取り組む「過剰な延命治療を控えて自然死を求める」尊厳死運動が、日本国民全体に受け入れられる日が来るのでしょうか。今回のブリタニー・メイナードさんのような考え方は許容されるのでしょうか。

 日本で積極的安楽死の容認を法制化しようとする人々は次のように主張します。
 1.生に対する要求と死に対する要求、治療を受けるか受けないか、延命するかしないか、等、患者の自己決定権は最大限尊重されるべきである。
 2.キリスト教文化圏の国では、個人の自己決定権を尊重して積極的安楽死が法律や判例で容認されている国があり、日本も見習うべきである。
 3.生命の継続・延命を強要し、心身の耐え難い苦痛を継続させることは、虐待や拷問であり、死生観の強要である。
 4.あらゆる形態・手段による延命治療は有害無益な医療であり、医療費の公費負担は回復する見込みがある医療に限定して使うべきである。

 この中で最も問題となるのは4であり、このような主張をする集団からの圧力により、患者の自己決定権・生存権が侵害され、死を強要される可能性があるとして、反対する人々がいます。「安楽死」の歴史をたどれば、「死ぬ権利」推進論者がいかに否定しようとも、常に「社会に負担となるものの処遇」がその背後に見え隠れしてきた(大谷いづみ、生命倫理と医療倫理)ことは間違いないのです。

 ヒトは自分の生を選んで生まれてくることはできません。じゃあ死は選べるのか、死ぬ権利は存在するのか…。
 私は生命倫理学者ではないので私自身の答は持ち合わせていませんが、浜田(関東医学哲学・倫理学会編 医療倫理Q&A)によれば「死ぬ権利はない。ただし、死に至る過程についての選択権はある」とのこと。となると、自らの意思で死を選ぶことは許容されるということ?(自殺もOK?) 本人の意思が明確でなければ、周りの人々がその人の延命治療中止を決めることはできないということ?(裁判所は推定的意思表示で足りるとしていますが…)

 安楽死・尊厳死の問題は簡単には結論を出せません。しかしいつか必ず死を迎える者としては、どのように死を迎えたいか、自分自身がよく考えると同時に、家族とも十分に話し合っておく必要があるのではないかと思います。
 (平成26年11月13日)